『触れられない人形』


Illustration by 笹森りこ




 一

――いっそ、百万円とか値段が付いていれば良かったのに。

都内某所、夕暮れ時、薄暗いコンクリート打ち放しの部屋で、私はその人形と出会った。
人形の傍に貼られたプレートには、三十万円の文字があった。
私は無職だった。
人形展を訪れたのは初めてだった。三十三歳になるまでアニメやゲームに親しんできた。今回も、ある新進気鋭のアニメーターが個展を開くということで、このギャラリーを訪れたのだった。その時はまだ、この人形が飾られていることを知らなかった。このような世界が存在することも。
初めは、「映画に出てきそうな人形だな」という程度の印象だった。だが、家に帰っても、あの、こちらを圧倒するような雰囲気を纏った人形たちの姿が、彼女たちのいる世界が、脳裏にこびりついて離れなかった。その時に至るまで、私は人形というものに対して大した興味を持っていなかった。せいぜい人形が登場する漫画を読んで楽しんでいた程度だった。その日、私はこれまでのそのような楽しみ方が間違いであったことを痛感させられたのだった。

――その人形は圧倒的だった。

風雨の吹き荒れる中、濡れた傘を畳んで玄関の傘立てに入れ、急勾配の階段を上った先の受付で入館料を支払い、その部屋に足を踏み入れた。
静まり返った薄暗いコンクリート剥き出しの部屋、微かに外の風雨の音が響いてくる。ぴちゃん、ぴちゃんと雨垂れの滴が落ちる音が断続的に聴こえている。部屋を仄かに照らす蛍光灯は緩やかに明滅し、いつ寿命が尽きるのかと不安を抱かせる。まるで、ホラー映画の世界だった。
部屋の奥にはもう一つの小部屋があり、人一人がようやく通れるだけの隙間が入り口になっているようだった。その隙間に半身を差し入れるようにしてすり抜けると、そこに問題の人形たちが飾られていた。
二人は鞠を手にした和装の人形たちだった。一人は目を閉じ、もう一人はこちらを見ているようでいて、ここではないどこか遠くを見詰めているような眼差しをしていた。可愛らしさもありながら、いつか遠い昔に読み聞かされた古い伝承に出てくるような人形たちだった。私が「映画に出てくるような」と形容した人形はこちらだった。彼女たちの纏う風格は、数百年前に作られ、名家に脈々と受け継がれてきたかのような印象を受けるものだった。ただ、ここに飾られている以上、作られたのは最近だとは推測され、その矛盾を生じさせるに至った人形作家の技術の粋に思いを馳せずにはいられなかった。
もう一人、二人の和人形とは別の棚に飾られている人形がいた。
その人形は、手足がなく、裸で、身体には茶色の液体を垂らしたような模様が浮かんでいた。片脚は大腿部までがあり、そこから先は断ち切られるでもなく、袋の口を絞るような形で先細りになっていた。顔の表情は安らかそうに見え、目を閉じており、痛みを感じさせる表情ではなかった。
私はこの人形を見た瞬間、「見てはいけないものを見てしまった」という感覚に襲われた。そして、周囲に誰一人としていない薄暗い小部屋でこの人形と対峙していることを意識すると、自分がホラー映画の主人公になったかのような感覚に陥り、知らず呼吸が浅く早くなるのを感じていた。私は意識してその人形をあまり長く見つめていないようにして、その場から立ち去ったのだった。
ただ、そうしていわばホラー映画の実演をしていた時も、自然と恐怖はなかったように思える。それは、その人形の表情が安らかで、むしろ可愛らしさもあり、こちらに危害を加えるような存在とは思えなかったことがその理由だったのだと思う。こちらを襲ってくるというよりは、その子自身が何かに襲われ、傷付けられ、満身創痍となっている――。そのような痛々しさを感じさせるものだった。あるいは、それは憐憫の情をも抱かせるものだったのだろう。その人形の作者の作品を知るうち、私はそれを確信するようになっていった。

二度目にギャラリーを訪れた際、私はより時間をかけてその人形と対峙することにした。裸の少年の人形、手足がなく、片脚は球体関節の付け根が剥き出しになっており、もう片方は大腿部までがある。その痛々しさとは対照的に、その表情は安らかそうに見える。向き合っていると、その人形を中心として半径十メートルの気温が五度ほど下がっているような気がした。圧倒的な空間支配力とでも呼べるような影響力をその人形は有しているのだった。私は確かに、それを直に感じていた。語弊を恐れずに述べるならば、ブロック塀に囲まれた狭い路地裏を歩いていて、ある一角に差し掛かった時、すぐ前方に人間の死体を発見してしまったら、このような感覚に襲われるのかもしれない。それは死体という存在が持つ特別な意味と、それが存在する空間が帯びる一種の荘厳さとも呼べるような雰囲気なのだと思う。親族の葬儀に参列し、納棺の前に故人の周りに無数の花びらを差し入れ、棺の前で手を合わせる時の空気と似ているような気もする。経験したことのある向きも多いかと思われるが、葬儀場を流れる空気には独特な匂いが混じっているように感じられるものだ。それは、死体処理でも消し去りきれない死臭によるものというよりは、死という概念が明確に現実のものとなり、それを目の当たりにすることによって、周囲の者たちにそれが伝染するかのように影響を及ぼしているようにも感じられる。私は、幽霊や霊魂といったものを積極的には信じていないが、事実、葬儀場を流れる空気には独特なものがあることは確かだと感じている。あるいは、そのような独特な雰囲気のことを「ゴシック」と呼ぶのかもしれない。ただ、私はその方面に明るくないので詳しく説明できないのだが。
そのような濃密な、いわば死の匂いを纏いながらも、その人形はなお死体そのものではなかった。その人形からは確かに、生の息遣いを感じられた。――生きているような人形というものがある。江戸時代、あるいはそれ以前から今日に至るまで、名人の手になる精巧な人形は、それを前にすると本物の人間を前にしているかのような感覚に襲われ、今にも人形の瞳がこちらを向いて喋り出すのではないかという恐れを抱かせるものがある。あまりに精巧な人形は見る者に恐れを抱かせる。その人形はまさにそのような生々しさを有していた。しかしながら、同時に、濃密な死の匂いをもってこちらを圧倒してくるのだった。
生と死の混濁――。
それが、その人形の持つ特性だった。故に、私はその人形から死体を前にした時のような恐れと荘厳さを与えられると同時に、生々しいその質感と安らかな表情から、ある種の愛着や憐憫をも惹き起こされるのだった。その形容しがたい雰囲気は離れがたい魅力をもって私を縛りつけたのだった。
寝ても覚めても、とまではゆかずとも、ふと気が付くとあの人形のことを考えている自分がいた。あの圧倒的な存在感、濃密な死の匂いと生々しい質感、深いバックグラウンドを背負っているような悲壮な雰囲気。それらは私の知らない世界だった。

――なぜ、ここまで人形に惹きつけられるのか。
――私は一体、どうしてしまったんだろう。



当時、私の預金口座にはニ千円しかなかった。
一日三食、カップ麺で凌いでいた。スーパーマーケットで一個百円で仕入れれば、一日三百円、月額一万円以下で食費を賄える計算だった。無論、栄養に偏りがあることは承知の上だったが、野菜を買うだけの金銭的余裕はなかった。一日三食分の野菜を買うとなれば、食費は優に倍以上になっていただろう。そのような食生活のおかげで、私の体重は半年間で十キログラムほど減っていたのは嬉しい副作用と言えなくもなかった。
実家からは月額五万円の仕送りを受け取っていたが、全額が家賃に消えた。食費一万円、光熱費一万円、通信費五千円に抑えたとしても、月に二万五千円は赤字だった。赤字の分はなけなしの預金を取り崩して賄うしかなかった。毎月の二万五千円を支払えるか否かで始終、頭を悩ませている――。それが当時の私の状態だった。そのたった二万五千円がいかに大金に思えたことだろう。当時の私にとっての二万五千円は、普通の人の考える二十五万円にも匹敵したと言っても過言ではないだろう。
当時の私はそのようにして生き延びていた。先のことを考える余裕などなかった。来月の食費をどうするのか、不足する分をどうやって捻出するのか、そのようなことしか考えられない状態だった。当然、年金も健康保険料も支払うことはできず、納税の免除を申請するほかはなかった。税務署から来た督促の担当者を「お金がないんです」と言って追い返したこともあった。来月の食費も用意できるか分からない状態で、どうして三十年後の年金のことなど考えていられるだろうか。今思えば、生活保護を申請する水準だったと思われるが、不足しているが仕送りはある以上、それも役所に受理されるかは不明だった。

どうして、私がそのような状況に陥っていたのかを説明すれば長くなる。一言で言えば、就職活動に失敗したということだ。某有名私立大学を留年を繰り返しながらも卒業はしたが、就職できず、学習塾講師のアルバイトや日雇いのパソコン設置の軽作業などで糊口を凌いでいた。しかし、年下の上司と口論になっては退職を繰り返し、職場を移っていた。
二十代のうちは、まだ自分の内に将来に対する楽観が残っていた。「いくら辞めても、またすぐにアルバイトの口はある」と考えていた。同年代が就職に成功し、日々を会社勤めに費やしているのを横目に、私はアルバイトで生活費を稼ぎ、余暇を好きなゲームやアニメの鑑賞に費やしていた。特に、インターネット上のオンラインゲームには明確が終わりというものが存在せず、無制限に生活時間を注ぎ込んでいた。一日十六時間連続でオンラインゲームに没頭したこともあった。
当時の私は――若気の至りと言えば、それまでだが――それが自分の生き方だと信じてやまなかった。自分が間違った生き方を選んでいるという自覚は全くなかった。だが、そのような生活が許されたのは二十代までだった。三十歳を過ぎた途端、アルバイト生活は破綻をきたした。まず、周囲の目が冷たくなった。両親からは、「いつまでフラフラとしているんだ。早く定職に就け」と繰り返し説教を受けた。
そして、世間の目の変化は職場でも現れてきた。一般的に、職場における立場というものは年齢と連動するものであり、その人の年齢により要求されるスキルが高くなっていく。その要求に見合わない者は落伍者の烙印を押され、職場から疎外されるようになっていくのだ。私の場合もまさにそれであり、上司から、「その歳になって、そんなこともできないのか」と叱責されるようになっていった。さらに、職場の上司が自分よりも年下になり、あくまで「バイト君」として扱われることに心情的なフラストレーションが鬱積し、我慢の限界が近付いていった。それが一年、半年という期間で限界に達しては、上司と口論を起こし、退職願を叩き付けた原因となったのだった。
この件については、忍耐が足りないとする向きも多くあるだろうが、自らが同じ状況に置かれれば、多くの人は我慢できるものではないのではないだろうか。一般的には、そのような状況に陥らないように振る舞うのが通常であり、まともな就職を目指し、就職後は落伍者とならないようにスキルアップに努め、それでも追いつけない場合は、転職して職場を変えるなどして、自らの居場所を築き上げることに腐心しているのだ。今思えば、当時の私は、そのような「振る舞い方」を知らなかったことが、危機的な状況に陥った第一の原因であったと言える。
尤も、私も自ら進んでそのような状況に陥ろうとしたわけではなかった。自分なりに働き方を変え、お金を稼ごうとしたこともあった。インターネット上での広告の代行のようなビジネス、いわゆる、アフィリエイトと呼ばれる手法に挑戦していた時期もあった。インターネット上にブログやウェブサイトを開設し、そのページ内に商品のリンクを張ることで、そのリンクをクリックした閲覧者が商品を購入した場合、商品の購入代金のうちの数パーセントが報酬として支払われる、というものだった。その手法で上位を占める人たちは月額百万円以上、稼いでいるケースも存在するという話だったが、私の受け取った報酬は月額数百円程度だった。到底、生業として成立するものではなかった。月額百万円とまではいかずとも、数万円、あるいは、一万円でも入ってくれば、生活費の大きな助けとなるはずだと考えていたが、現実は甘くはなかった。
私がそのようなビジネスに手を出した理由には生来の性格があった。コミュニケーション能力の低さは自覚するところであり、上司と揉めて退職を繰り返してきた経緯を見ても、他人とコミュニケーションを取りながら仕事をすることに対して自分は不向きであることを痛感していた。それでも何とか上手く人付き合いをしようと努力して、それが曲がりなりにも成功しているうちは良かった。しかし、三十歳を越え、そのような努力でも補いきれない欠陥が露呈し始めていたのだった。

――自分は勤め人には向いていない。

それが、偽らざる私の本心だった。
そこで、前回の退職を機に職場でのコミュニケーションを取らずとも自宅で一人でできる仕事を探した。それが前述のインターネット上でのビジネスであった。もし、それが上手くいっていれば、また状況は違っていたのだろうが、私はあえなく失敗したのだった。

このような生活を送るうち、いつしか、私は若者とは呼べない年齢となっていた。アルバイト生活を支えていた、「若さ」という唯一の武器を失ったのだった。自業自得としか言いようがないが、当時の私は、寝ても覚めても襲ってくる将来への不安に押し潰されないようにすることに、一日分の精神力を消耗させられていたと言っても過言ではなかった。それほどまでに、私は追い詰められていたのだった。当時、もし、心療内科を受診していたら、鬱病予備軍と診断されていた可能性は大いにあっただろう。
ただ、そのような状況に陥ってはいたが、社会に対する恨みなどはなかった。現在の状況は自業自得であることは理解していたし、単純に、自分は運がなかったのだとしか思えなかった。一般的に、有名私立大学を卒業しても、四割程度の人間は就職せず、大学院へ進んだり、就職浪人となるのであって、自分は運悪く、その四割の内に入っただけだと考えていた。
この世界は万人に平等にはできていない。万人が平等な状態などはありえない。法の下の平等を否定したいわけではないが、現実として人間は平等にはなっていない。人は生まれる国も、生まれる家庭も、生まれる時代も、性別も、出生時体重も、選ぶことができない。もし、内戦の続く荒廃した地域で生まれたならば、日本で生まれた場合と比べ、その時点で圧倒的な不利を被ることになるだろう。あるいは、子供を愛さない親の元に生まれてしまうこともある。我が子の泣き声がうるさいという理由で、赤ん坊を床に叩きつけて殺す親もいる。若い男が、その内縁の妻の連れ子が自分に懐かないという理由で殴りつけて殺すこともある。私がそのような家庭に生まれなかったことは、真に「幸運」であったと言わざるを得ない。運が悪ければ、私もそのような家庭の子供としてこの世に生を受け、そして、虐殺されていた可能性も大いにあったのだ。
私と彼らとを分かったものは、ひとえに「運」のみでしかなく、そこにあるのは「運が良かった者と、運が悪かった者」だけだ。そう思えばこそ社会を恨む気も起きず、誰かを恨もうという気も起きなかった。ただ、行き場のない、ある種のやるせなさだけがあった。



最後にアルバイトを辞めてから三ヶ月が経過していた。いよいよ私は追い詰められていた。それが、「預金残高二千円」だった。直近の職場は入社から三ヶ月で退職したため、失業手当は受け取れなかった。財布の中には最後の命綱である二万円が入っていたが、それを今月の生活費として使い切れば、私は無一文となる見込みだった。

――ダメ元で生活保護を申請しに行くか、それとも、どこかのビルの屋上から飛び降りるか。

あの人形と出会ったのは、そのような時だった。
それは一種の爆発と言っても良かった。それまでの私の価値観は吹き飛ばされ、粉々に砕け散ってしまった。
人形に付けられていた三十万円という金額は、私の預金通帳には生まれて一度も印字されたことのない数字だった。ただし、二十万円という数字は一度か二度、学習塾のアルバイトで夏期講習の繁忙期に月間二十五日勤務をした対価として振り込まれたことはあった。だから、その人形を見た時、三十万円ならば非現実的な数字ではないと感じたのだった。

――非現実的な数字ではない。だが、到底、今すぐに用意できる金額ではない。

私は、「どうすれば三十万円を用意できるか」を考え始めるようになった。それは、これまで月額二万五千円の不足をどう捻出するかで頭が一杯になっていた私にとっては、生まれて初めての発想だった。

大金を手に入れるために定職に就き、フルタイムで勤務する――。

私はインターネットの転職サイトで派遣社員の求人を探すことにした。時給がアルバイトよりはましであり、また、勤務日数が安定することで、より多くの給与が見込めるからだった。ウェブサイト上には派遣社員の求人は数多くあったが、三十三歳になるまでフルタイムのオフィスワークなどしたことのない私にとっては、雲の上の世界のようにも感じられた。

――自分に、フルタイム勤務が務まるだろうか。

幾度となく自分に問いかけ、不安に苛まれもした。ただ、就職が成功した場合の見返りの大きさが私の背中を押した。食費、光熱費、通信費の合計が月額二万五千円の生活から、それを月額十万円に倍増させたとしても、十分、お釣りがくる計算だった。尤も、就職が成功した時点で、当然、実家からの仕送りは打ち切られる見込みだった。

私はまず、近所の百円ショップで履歴書を購入し、安物の電動カミソリで無精髭を綺麗に剃った。そして、数ヶ月間、押入れの肥やしとなっていたリクルートスーツに袖を通し、街角の証明写真機で履歴書用の写真を撮影しに出かけた。本来であれば、本格的な写真専門店で撮影してもらうべきだろうが、そのような金銭的余裕は当時の私にはなかった。
差し当たり、三部の履歴書を書くことにした。大学卒業までの学歴は普通のサラリーマンと比べても遜色のないもののように思われたが、職歴の欄にはアルバイトで勤めた会社名が並び、それぞれが長くても一年、短くて数ヶ月という期間のものが埋め尽くした。資格の欄には、十年以上前の学生時代に取得した英語検定二級と、子供の頃から親に言われて習っていた剣道で学生時代に取得した二段を記入した。私のアピールポイントと呼べるようなものはその程度だった。
何度か書き損じを繰り返しては、一から書き直し、三部の履歴書が完成するまでに数時間を要した。百円ショップで購入した簡素な置き時計を見ると、時刻は既に十五時を回っていた。私はちょうど良い時間帯だと判断し、転職サイトに掲載されていた人材派遣会社の連絡先に携帯電話で電話をかけることにした。固定電話は月額費用がかかるため、かなり以前から契約を打ち切っており、携帯電話のみで生活していた。以前であれば、一般的に固定電話の連絡先がなければ就職は難しいと言われたことがあったが、最近の面接ではそこまで厳しくは問われないようになっていた。
コール音が鳴る間、私は大きく息を吐いて、せめて精一杯の好感を相手に与えるようなはきはきとした喋り方をしようと考えていた。元来、無口な質であり、コミュニケーション能力の低さは自覚している。だからこそ、少しでも電話口で悪印象を持たれないように気を付ける必要があった。
派遣会社への電話は、若干、発声が詰まった瞬間が何度かあったことを除けば、滞りなく終わった。面接の日時を数日後と定め、「よろしくお願いいたします」の言葉で締め括り、通話終了ボタンを押した。
通話の終わった後の六畳一間の部屋は、いつもより静けさが深まった気がした。
敷布団と毛布が無造作に丸められて部屋の右手に積み上げてある。狭い部屋に似つかわしくないスチール製のパソコンラックとデスクチェアが窓際を塞いでいる。
外はまだ明るく、大きなサッシ窓からは穏やかな日差しが降り注いでいた。カーテン越しの柔らかな光に包まれた部屋で、私はしばらくの間、佇んでいた。
後になって思い返せば、この瞬間が、私の転機であったように思える。今でも、時の止まったようなこの場面の空気感を、ありありと思い起こすことができる。あるいは、この瞬間から、私の中の止まった「時」が動き出したのかもしれない。

まだ日は高く、散歩にでも出かけたいところだったが、平日のこの時間帯に外へ出かけるのは「危険」だった。定職に就いている者であれば会社で働いている時間帯であり、街角をうろついていると無職だと思われる可能性があった。以前、この時間帯に近所のスーパーマーケットで買い物をした時など、無精髭のせいもあったのだろうが、レジ係の女性から不審者を見るような目付きで睨まれたことがあった。それは必ずしも私の神経質による錯覚であったとは言い切れない面がある。その一件があってから、私はそのスーパーマーケットには近付かないようにし、また、その時間帯には外出しないようにしていた。
私は「危険な」時間帯が過ぎるまで、インターネットのオンラインゲームに興じることにした。家計が悪化し始めてから、この半年間は新しいゲームソフトを買う余裕もなかったが、無料のオンラインゲームであれば、何十時間でも遊んでいられるのだった。パソコンを立ち上げ、ブラウザのお気に入りに登録しているサイトにアクセスする。その仮想空間の中では、私はしがない無職の三十三歳の人間ではなく、普通の社会生活を営んでいる人々に混じって、むしろ、彼ら以上にゲーム内での高い地位を占めることもできたのだった。このバーチャル空間での生活が、現実にはどん底の中にあっても、私の精神の安定に役立った面はあるだろう。その意味では、私が自室に閉じ籠りがちになった原因の一端はこのオンラインゲームにあったが、私が辛うじて最低限のコミュニケーション能力を失わずに済んだ理由も、このバーチャル空間にあったと言えるのかもしれない。



数日後、私は都心にある人材派遣会社を訪ねた。最寄り駅から徒歩十五分程度の古びたビルの六階にある小さな会社だった。エレベーターで六階まで上がると、フロアの内装は小綺麗だったが、お世辞にも広いとは言えなかった。受付には誰もおらず、周囲をアクリル板で囲まれた電話機と来客用であろうソファが置いてあるだけだった。私は勝手が分からず、声をかけるべき社員の姿を探して、しばらく右往左往していたが、やがて、電話機の前に貼られた案内表示のシートを発見した。そこには、用事のある者は下記の番号に内線電話をかけるようにとの指示があった。私は案内に従って内線電話をかけたが、二度、三度、かけても繋がらない。もう一度、よく番号を確認してからかけ直すと、ようやく繋がったのだった。

「お世話になります。面接の予約をしていた――」

程なくして担当者が奥の部屋から現れ、間仕切りで区切られた幾つかの小部屋のうちの一つに私を案内した。起動済みのパソコンを前にして、職歴や詳しいスキルの内容等の必要事項の入力と簡単なスキルテストが行われた。スキルテストがあるとは聞いていなかったので動揺はあったが、その内容はごく簡単なものだった。
それらが終わると、再び担当者が現れ、ヒアリングに移った。
大学卒業時の就職活動の一環で面接のノウハウ本は何冊か読み、自己分析や適性検査対策など一通りの活動をした経験はあった。その時は、会社の経営方針や社風について下調べをして、少しでも面接官に好印象を与えるための受け応えをするようにと何度も練習したものだったが、生来の内気の性格もあり、結果は芳しくはなかった。それから何年も経ち、面接にはそこまでの準備を必要としないようになっていた。自然体で、自分の学歴と職歴――と言っても、アルバイトばかりだが――と志望動機を述べ、あとは、「明日からでもぜひ働かせてください」と熱意をもって訴えるだけだ、と考えるようになっていた。
人材派遣会社の面接は、面接というよりは登録会と呼べるようなものだった。就職面接のような突っ込んだ質問を投げかけられることもなく、現状のスキルの申告と希望する派遣先の業務内容、実際に現時点で紹介できる派遣先の案件の情報を社名を伏せる形で説明を受けた。私はそれまで、そのような丁寧な斡旋のやり方をしてもらったことがなく、非常に嬉しかったことを覚えている。

――自分のような者でも、一人の人材として扱ってくれている。

それが嬉しかった。
ただ、すぐにも就業開始できそうな口ぶりだった担当者の好意的な態度とは裏腹に、そこからが大変だった。日時を決めて、派遣会社の営業の担当者と一緒に派遣先候補の会社を訪問し、先方の人事担当者との顔合わせを何度か行ったが、中々、契約成立には至らなかった。一つには私の悲惨な職務経歴書が影響していたのだろう。そして、何よりも三十三歳という年齢が常に大きな壁として立ちはだかっていることを感じていた。
公務員試験などでは、二十九歳程度が受験資格であるところが多く、社会人採用枠があったとしても、正社員としての五年間の勤務実績などが条件となっており、職歴なしの人間には関係のないものだった。民間企業でも、たとえ募集条件としての記載はなくとも、事実上の年齢制限がある会社が多いのではないだろうか。採用する側からすれば、新卒の若い子たちに混じって、三十歳を過ぎた「おじさん」が入ってきたのでは、指導する側も困るというのは理解できる。その程度の、面接でやり取りをした人事担当者の雰囲気を察する能力は私にもあった。
年齢だけは努力ではどうにもならない。年齢だけは取り返しがつかない。どこまで行っても、その事実だけは、今でも、私の背負い続けるべき大きな負債として、重くのしかかっている。
そのような私を見捨てず、諦めずに派遣先の紹介をし続けてくれた派遣会社の担当者には、いくら感謝しても足りない。仕事の一環とはいえ、そのような「欠陥商品」を売り込んでくれたこと、実際に売約に成功してくれたことに対して感謝するしかない。
昨今は人材派遣業界への風当たりも強く、実際、給与の中抜きと呼べるようなものも存在していることは私も実感するところではあるが、一方で、私のような者が社会復帰を目指すための大きな手助けをしてくれたことも事実であった。私のような者は、もし、人材派遣会社が存在しなければ、社会復帰できなかったかもしれない。

連日、派遣会社の担当者と一緒に様々な会社を訪問し、職務経歴書の提出と自己紹介を繰り返した。そして、六社目の顔合わせで、ようやく私は採用されたのだった。
六畳一間の部屋で採用の連絡を受け取った時、私はただ、「ありがとうございます」を繰り返すしかなかった。

――このような自分でも、採用してくれる会社がある。

そのことが、ただ、嬉しかった。
業務の内容はパソコンの設置・設定――いわゆる、リプレイスとキッティング――であり、時給は一千二百円とアルバイトに色を付けたような待遇ではあったが、フルタイムで働けることが何よりも魅力的だった。実家に報告の電話を入れると、両親は私の社会復帰を喜んでくれた。
私の実家は、現在のアパートから電車で十五分程度の距離にあり、行こうと思えばいつでも行ける距離にあったが、私が荒んだ生活を送るようになってからは疎遠になっていた。両親は健在で、すでに定年退職を迎え、年金暮らしをしていた。数千万円などという、私には想像すらできない莫大な退職金を受け取り、頻繁に数日がかりの旅行をしているらしかった。両親とも普通のサラリーマンと教師の共働きだったが、バブルの時代には高級車を乗り回していたらしい。いわゆる典型的な団塊の世代であり、終身雇用制度に守られた世界観を未だに持ち続けている人たちだった。
誰もが当たり前のように就職し、当たり前のように結婚し、当たり前のように子育てをし、当たり前のように好景気の恩恵を享受し、当たり前のように退職金を受け取ることができた、最後の世代と呼んでも良いのではないかと思っている。彼らは――勿論、多くの不幸も存在したことだろうが――概ね幸福な世界に生き、そして、幸福のうちに死を迎えることだろう。

――彼らとは住んでいる世界が違う。

それは私の実感だった。
勿論、月額五万円の仕送りをしてもらっていることには感謝していた。私がどん底の生活とはいえ、まだ屋根のある場所で寝起きできているのも、その仕送りのおかげであることは理解していた。その意味では、私はまだ恵まれた方だと言えた。私も一つ間違えれば、文字通りの無一文となり、ホームレスとして公園で寝起きしていた可能性も大いにあったのだ。尤も、その「繋がり」があればこそ、生活保護の申請に踏み切れなかったことも事実だった。それが結果的に良かったのか、悪かったのかは、今でも分からない。ただ、一つだけ言えることは、私は多くの幸運に恵まれ、家族との繋がりを断ち切ることもなく、派遣社員として社会復帰を果たすことができた。それは紛れのない事実であった。



勤務初日、私を派遣先に滑り込ませてくれた担当者の同行の下、派遣先の会社に出勤した。最寄り駅の改札口で、同じ職場に派遣される別会社の派遣社員とも合流し、一緒に派遣先へと向かった。彼も私と似たような風貌で、この決して好待遇とは言えない条件の案件に複雑な思いを抱いて参加しているのかもしれないと思うと、親近感が湧いたものだった。
私は職場の方々に少しでも好印象を与えるようにと、二十歳そこそこの新入社員になったようなつもりで振る舞うことに決めていた。大きな声で挨拶をする私の声が少し上ずっていたことは否めなかった。私も必死だったのだ。この機会を逃したら、今度こそホームレスになるか、ビルから飛び降りるかしかない、という崖っぷちであることを強く意識していた。もう、これまでのような失敗は許されない。最後のチャンスであるということを胸の内で反芻していた。
職場は大きなオフィスビルの一角で、客先常駐のエンジニア派遣会社の社員たちが六名ほど、私たちを迎えてくれた。上司にあたるチームリーダーは若く小綺麗な身なりをしており、私と同年代かそれ以下のように見えた。大手企業の業務用端末の入替えに関わる三ヶ月間のプロジェクトの実働要員として、私は呼ばれたのだった。パソコンを台車に載せて運んだり、配布場所にセットして配線を繋げたりする、いわゆる肉体労働だった。誰にでもできる仕事だから私のような者が呼ばれたのだと、すぐに理解できた。ただし、そのような仕事をこれまでずっと生業としてきたのであり、むしろ、望むところだった。誰にでもできる仕事だからこそミスは許されない。どのような仕事であっても、手を抜かず、全力で業務をこなす。それが、アルバイト時代から持ち続けていた、私のささやかな誇りと呼べるようなものだった。

チームのメンバーへの挨拶が済むと、私たち派遣社員の二人を直接、指揮するディレクター、いわば、班長の人に連れられて、広々とした倉庫のようなフロアに案内された。そこには入替用のパソコンが入った大きなダンボール箱が数十箱ほど積まれていた。順次、残りの数百箱が届くとのことだった。私の最初の仕事は、その膨大なダンボール箱の山を片端から開梱し、パソコン本体とキーボード、マウス、アダプタ類を分別して並べることだった。それだけで半日を要した。その後、エレベーターでフロアを移動し、入替用の端末にソフトウェアをインストールしたり、環境設定を行うためのキッティングルームに案内された。そこが私たちの待機場所となった。
私たちを指揮する班長は、四十近くの男性で、いつもポロシャツを着ていた。いかにも人情味のあるおじさんといった風貌で、実際、気さくで面倒見の良い人だった。この人となら上手くやっていけそうだと感じた。往年のロボットアニメが好きで、その話題でよく盛り上がったことを覚えている。尤も、私はあまり深い知識を持ち合わせていなかったので、相槌を打つ程度しかできなかったのだが。昼の休憩時間になると、オフィスビル内の弁当屋に一緒に昼食を買いに行ったり、近くのタイ料理店へタイカレー弁当を買いに連れて行ってもらったりした。
そのような職場での付き合いは、これまで三十年以上、生きてきて、初めての体験だった。これまで経験してきた職場では、私の生来の気質の問題が大きかったのだろうが、一緒に昼食を食べに行ったりすることはなかった。職場という空間は仕事をするために存在し、上司から与えられた仕事をきっちりと片付け、その報酬として給与を受け取る――。それだけの空間だと考えていた。勿論、それは間違いではないのだろうが、それが全てではないということは、私も薄々、気付き始めていた。ただ、当時の私は、目の前の仕事をきっちりとこなすだけで精一杯であり、他のことに目を向ける余裕などはなかった。それは、今思えば、自分の適性に合った職場に恵まれなかったという意味では、運が悪かったとも言えるのかもしれない。いずれにせよ、私は、話の合う――あるいは、話を合わせてくれる――年上のおじさんを上司に迎えたことで、遠い雲の上の世界だと考えていた、「フルタイム勤務の世界」へと、一歩、踏み出すことができたのだった。それは、非常に幸運だったと言えるだろう。
そのような幸運に恵まれて、私は特に大きなミスもなく、滞りなく業務をこなしていった。初めてのフルタイム勤務ではあったが、実際の仕事は軽作業が中心で、これまでに経験してきたことの延長であり、また、学習塾講師のアルバイトで、夏期に月間二十五日勤務を経験していたことから、週五日勤務の生活サイクルは、思ったよりもすんなりと受け入れることができていた。

――週五日働けば、月給十六万円は手に入る。

この、つい数週間前まで願ってやまなかった、夢のような待遇が、今、自分のものになっていた。その事実がもたらす確固たる将来への安心感は何物にも代えがたいものだった。つい数週間前まで、絶え間ない不安に責め苛まれ続け、精神を消耗し続けていた。しかし、ついにその苦痛から、私は解放されたのだった。それは、私が生きてきた中で最も喜びに満ちた瞬間であり、私が獲得したもののうちで最大の成功と言っても良かった。今でも、そう思っている。これから先、どのような幸運が訪れたとしても、この瞬間ほどの輝かしい勝利は得られないことだろう。大学受験で有名私立大学に合格することなど比較にならないほどの成功だった。この時、初めて、私は、自分の手で何かを掴み取るということの意味を知ることができたのかもしれない。

毎朝、満員電車で三十分程度、揺られ、職場に出勤し、チームリーダーに挨拶をしてから、自分たちの待機場所であるキッティングルームに移動する。決まって、班長と同僚の派遣社員は私よりも早く席に着いていた。
その日の予定を確認し、パソコンとモニタを一台ずつ台車に載せて、班長に声をかけてから、廊下へと出る。台車を転がしてフロアを移動し、予め指定されていた座席へとパソコンを搬入し、座席の社員にリプレイスの旨を伝え、席を外してもらう。その間に、既存のパソコンとモニタを撤去した後、新しい端末を設置し、配線を綺麗に整える。パソコンの起動確認とソフトウェアの動作確認を行い、問題がなければ、各工程ごとにチェックシートに印を付け、最後に、席に戻ってきた社員の署名をもらってから、古いパソコンを台車に載せてキッティングルームへと戻る。
初めは班長と一緒に回ったが、慣れてきたら一人で回るようになった。この一連の作業で、一回あたり数十分程度、それを全社員に対し、延べ数百回、繰り返したのだった。パソコンの開梱作業や動作不良への対応等も必要となるため、単純計算以上の日数を要した。その結果が、三ヶ月間のプロジェクトという期間だった。



一ヶ月、二ヶ月と労働の日々が過ぎるうち、私の預金通帳には、健康で文化的な最低限度の生活を営めるだけの金額が印字されるようになっていった。尤も、それは同年代の正社員たちから見れば、「大卒初任給以下」の金額ではあったが。私の生活水準は、二ヶ月前と比べ、格段に向上していた。一日三食のカップ麺はとんかつ弁当や幕の内弁当へと変わり、ゼロ円として計算していた服飾費には一万円が計上されるようになっていた。
最初の給料日の週末に、私は近所の紳士服店へと向かい、新しいスーツと紳士靴を購入することにした。勿論、新卒者向けの格安のリクルートスーツだったが、歳は取っていても正社員歴のない私にはちょうど良いと考えていた。紳士服店の銘の入った真新しいスーツの袋を抱えて自室へと戻り、部屋の壁にハンガーで掛けると、「真っ当なサラリーマン」らしくなったと感じることができた。

――この調子で働き続ければ、半年後には、あの人形を手に入れることができる。

生活が安定してくると、趣味のことを考える余裕が出てきた。真っ先に思い浮かんだのは、あの人形のことだった。思えば、二ヶ月前、あの人形と出会ったことが、自分の生活が一変する切っ掛けではなかったか。私は、人形の写真集を通販で購入することにした。生活が安定するまでは数千円の写真集を買うのにも躊躇していたものだが、今やその必要もなくなったのだった。
写真集に掲載されていた、過去の展覧会に出展されたという人形たちは、どれも圧倒的な雰囲気を纏っていた。美しさと痛々しさとの混在、見る者に恐ろしさを感じさせるとともに、可愛らしさをも失っておらず、死の匂いを纏いながらも、生々しい息遣いを感じさせる人形たちだった。どの人形をとっても、途轍もない価値を秘めた作品に他ならないと感じられた。この中の一人でも手に入れることができたなら、私の人生は大きく変わってしまうことだろう――。そう強く意識させられるものだった。

私はその中の一人に心奪われた。年の頃は十代半ばかと思われる少女の人形で、その表情は物憂げでいて、何かに縋るような悲哀を感じさせた。微かに開いた唇からは、諦めに満ちた深い吐息が漏れてきそうだった。何か悲惨な出来事があって、深く心を傷付けられ、ぼんやりと虚空を見上げている――。そのような印象を受けた。その儚さと諦念に満ちた表情は、私の憐憫の情を激しく掻き立てるものだった。
衣服は着ておらず、栄養失調のような痩せ細った手足と、あばらに空いた幾つかの空洞、やや膨らんだ丸い腹部を持っていた。唯一の装飾品と言える首元に巻いた透き通った黒い大きなリボンが、彼女の気品ある雰囲気をより一層、高めるのに役立っていた。社会の底で泥にまみれ、悲惨を味わい尽くし、深い絶望に陥ってなお、生来の気品を失わない――、彼女は、そのような人形だった。
私はその人形に強く惹かれた。どうしてもこの人形を手に入れたいと思った。もし、この人形と一緒に暮らすことができたなら、どれほどの幸福を味わうことができるのだろう。その光景を想像するだけで、身震いを禁じえなかった。私はこれまで、このような感情を抱いたことがなかった。人間に対してでさえ、そのようなことはなかった。まして、人形に対しても。彼女を手に入れることを想像するだけでぞくぞくと背筋が震え、何事も手につかない焦燥感に駆られるような気持ちになるのだった。このような状態をどう形容すれば良いのかは分からなかった。ただ、一つそれに近しい言葉を探すなら、それは――恋と呼ぶべきなのかもしれない。

私はインターネットで人形について調べ始めた。私が魅せられたような人形は球体関節人形と呼ばれるものらしい。思えば、以前、人形が登場する漫画を読んでいた時期にそのような単語を耳にしたような気がした。
球体関節人形のルーツはドイツの画家・人形作家ハンス・ベルメールに遡るらしい。その後、澁澤龍彦の紹介により、日本では独自の発展を遂げ、四谷シモン、吉田良、天野可淡、恋月姫らが球体関節人形の美の表現を追求していったらしい。そして、現在では、都内や京都を中心に多くの人形作家による人形展が開かれるようになっているという。その意味では、黎明期を知らないので比較はできないが、現在は人形を鑑賞するのに適した時期と言えるのかもしれない。私は良い時期に人形の世界と巡り会えたのかもしれなかった。ただし、過去に開催された、私の魅せられた人形の人形作家の個展へ行けなかったという意味では、六年ほど早く知っておくべきだったと、悔しさを覚えたものだった。
私が衝撃を受けた人形は、人形の身体を分解・再構成するハンス・ベルメールのグロテスクな表現方法の系譜に連なるもののようでありながら、なおも可愛らしさを失っていないという点が、人形作家のユニークさであるような気がした。実際、この作家の人形写真集を眺めていると、グロテスクな表現も含まれてはいるが、それだけではない、深いバックグラウンドを感じさせるような――たとえるなら、数百年前から名家の蔵に脈々と受け継がれてきた門外不出の人形が持ち得るような風格、いわば、「これがかの曰くつきのお人形でございます」と言われても全く驚きはしないような――圧倒的な存在感を纏っていることが感じられるのだった。
その後、様々な人形展を訪れ、多くの人形たちと出会ったが、あの作家の手になる人形の持つ独特の存在感を感じさせるものとは出会うことはできなかった。勿論、どの人形も非常に美しく、作り手の技量の高さを窺えるものだったのだが。私は、あのような人形を生み出せる作家は他に類を見ないのだと悟るに至ったのだった。
いや、一度だけあった。それは、天野可淡の人形を鑑賞する機会に恵まれた時だった。その人形が持つ神秘的な雰囲気と圧倒的な存在感、どこか遠いところを見ているような眼差し、見たこともないような瞳の色――。その少年はまさしく、この世ならざるものの雰囲気を纏っていた。言うなれば、天使と呼んでも良いのだろう。あのような別格と呼べるような人形を手に入れるためならば、自らの財産を投げ打っても構わない、という気持ちは、私にも理解できるような気がした。

――いつか、必ず、人形を手に入れに行こう。

ただ、一つだけ問題があった。それは、私の寝起きしている六畳一間のアパートには、あの気品溢れる人形に相応しい居場所を作ってあげることができないという点だった。引越しをするとしても、まだまだ裕福とは言えない資金繰りの中で、かけられる家賃は限られていた。
さらに、私のようなニワカの愛好家などよりも筋金入りの人形蒐集家の方が、あのような風格ある人形のオーナーには相応しいのではないか。それを思うと、私の中の情熱は掻き乱され、身の程を知るべきだという客観的な声が脳裏の奥の方から聴こえてくるのだった。
果たして、私は人形を手に入れて、その後、どうしたいのだろうか。その問いへの答えは持ち合わせていなかった。お人形遊びをしたいわけでもなく、着せ替えや写真撮影を楽しみたいわけでもなかった。ただ、あの日、あの人形を見た瞬間の戦慄と、人形写真集であの人形を見つけた瞬間の喜びとは、決して否定されえないものがあった。それは、理屈ではなく、私の心の奥底から湧き上がる衝動であった。理性を凌駕する情動であった。

――あの人形を手に入れたい。

それは心の底から湧き上がる叫びだった。そのような感情を抱いたことは、私の過去にあったかどうか。おそらく、それが初めての体験であったように思える。理性に恐れを抱かせるほどの圧倒的な情動だった。その抑えきれない衝動が、あたかも灼熱の砂漠の只中で一滴の水を求めるように、私を突き動かすであろうことは容易に想像できたのだった。



生まれて初めてのフルタイム勤務の日々は滞りなく過ぎてゆき、約束の三ヶ月を終える日を迎えた。契約期間の最終週は専ら後片付けに費やされていた。業務用端末入替のプロジェクトは予定通りに完了し、私たち派遣社員は契約満了となった。
派遣社員にとっての退職日は、アルバイトでも同様の経験をしてきたが、あっけないものだった。作業員用のパスカードをチームリーダーに返却し、二、三言、退職の挨拶を交わした後、筆記用具や工具等の私物をまとめて、通勤鞄を持って会社を出る。それだけだった。ただ、今回は少し違っていて、お世話になった班長からは、労いの言葉をかけられた。プロジェクトの成功を祝い合った後、今後はどうする予定なのかと尋ねられたが、まだ決まっていないと答えるほかはなかった。事実、次の職場は決まっていなかった。尤も、幸運なことに、それから程なくして、私は所属の派遣会社から、次の職場への採用が決まったという連絡を受け取ったのだった。
二回目のフルタイム勤務の仕事は初めての時よりも格段に容易に採用が決まった。契約満了間近となった端末入替の業務と並行する形で、日々の業務の終業後に次の案件の会社との顔合わせを行った。今回は運良く、二社目の顔合わせで契約締結に至ることができた。私は、三ヶ月間の短期ながらフルタイム勤務での実務経験を得たことが評価に繋がったのだと実感していた。
新しい職場は、某市役所での公式ホームページの更新業務だった。ウェブ業界は未経験だったが、長年、インターネットに慣れ親しみ、趣味のブログや自作のホームページの作成をしたり、数ヶ月前にはアフィリエイトビジネスにも挑戦したこともあったため、HTML、CSS等の基本的な知識は身に付いていると考えていた。派遣会社側も、職場での指導を受ければ、私にも務まる程度の業務内容だと判断していたのだろう。それは結果的に正しかったのだが、やはり、会社での業務となると、自宅で趣味のホームページを作るのとは別次元の話となってくるということを、私はこの業務を通じて学ぶこととなった。

勤務初日、派遣会社の担当者に連れられ、市役所の門をくぐった。守衛室前で所属と名前、訪問先、来所目的を記入し、三桁の番号の書かれたアクリル製のプレートを受け取った。市役所のエレベーターを待つ間、私の脳裏には、懐かしいような気持ちと少しのやるせなさがよぎっていた。
私は大学卒業時には公務員を目指していた。四回ほど、関東地方の市区町村の公務員試験を受験したことがあった。筆記試験にはそれなりの自信があったが、何よりも面接試験が壊滅的だった。生来のコミュニケーション能力の低さが、ここでも越えられない壁として立ちはだかった。結果は見事に全滅だった。他の民間企業への応募でも同様の結果となり、私の就職活動は失敗に終わったのだった。そこから先の紆余曲折、あるいは、彷徨の日々については前述の通りである。そのような過去を持つ私が市役所での勤務を任される日が来ようとは、人生とは面白いものだと感じていた。
老朽化が進んでいる築三十年程度の庁舎の五階へと上り、職場となるフロアの一角に着くとすぐに、同じ島の奥の席の課長への挨拶を済ませた。派遣会社の担当者と別れ、私は自席に着いた。前回の職場は力仕事だったから、オフィスワークと呼べる仕事はこれが初めてだった。同僚となるはずの、もう一人の派遣社員はまだ出勤していないようだった。
私は自席のサイドチェストに通勤鞄を仕舞い、これから取り掛かるべき業務の手順について教えてくれるはずの同僚を待った。始業開始のベルが鳴る直前、彼女は姿を現した。恰幅の良い女性で年齢は私と変わらないように見えた。「よろしくお願いします」と大きめの声で挨拶をすると、彼女は小声で呟くように挨拶を返した。私は、この公務に関わる職場では小声で喋った方が良いのかと思い、以後気を付けるように心掛けたのだった。
彼女からは必要最低限の仕事の進め方を教わった。私と言葉を交わすのは作業を割り振る時と、私のミスを指摘する時の二種類だけだった。前者は次第にメールとエクセル上でのやり取りに置き換わっていったため、結果的に、彼女と言葉を交わすのは、私がミスをした時だけになっていった。全般的に、彼女は必要最低限のことしか指摘しない方針のようであり、不明点も多かったので、業務に必要な知識はマニュアルや自身の勘を頼りにするほかはなかった。
最初に私に与えられた仕事はマニュアルの熟読だった。それが終わると、簡単な更新業務から任されるようになっていった。市役所のホームページは制約が多く、あらゆる市民からのアクセスがあることを想定し、障害を持つ方もホームページから十分な情報を得られるようにと、アクセシビリティの厳守が求められたため、独学でウェブの知識を学んできた私にとっては全く勝手の違うものだった。作成するコードの文法から、命名規則、細かな注意事項に至るまで、詳細に定められた膨大なルールに抵触したコードを提出するたびに全て口頭で説明され、私はメモを取って対応した。
また、市役所のホームページは非常に更新頻度が高かった。会議の議事録や市民向けの告知が中心であったが、朝に各部署からの依頼が入り、夕方にはホームページ上に情報を掲載しなければならないという至急の案件も多かった。そのため、時間との戦いとなり、常に時間に追われる緊張感を強いられた。残業はそれなりにあり、月間四十時間から六十時間程度だった。
最初の頃、私は一日に十回以上、ミスを重ねた。その半分は細かいルールの説明不足が原因だったのだが、残り半分は私のケアレスミスだった。その都度、隣席の先輩から注意を受け、間違えた箇所を修正し、再提出を繰り返した。そのたびに、私はひたすらに頭を下げ、「申し訳ありません」を繰り返した。もし、この職場に長く常駐しており、私を指導する立場にある先輩から業務不適格の烙印を押され、派遣会社にその旨を報告されれば、私は解雇されるであろう可能性も考えられた。
私は、今度こそ長期で勤め続けるため、ひたすらに頭を下げてしがみついた。それは今までにない行動だった。そして、それこそが、私がフルタイムのオフィスワークの会社員としての生活を手に入れるための条件にほかならなかった。恥もプライドも捨ててしまえば良い。会社員という社会的地位を得るために、何もかも差し出して、しがみつくしかない。絶対に自分から辞めるとは言い出さない――。それが、必要な条件だった。

毎朝、職場である市役所に出勤し、庁舎の五階まで階段を上る。フロアに到着した時、課長はまだ出勤されていない日も多かったが、出勤されていれば、挨拶をした後、自席に着き、その日に作業を進めるべき依頼の内容を確認する。決まって、始業時刻のチャイムが鳴った数分後に先輩が出勤してくる。私が挨拶をすると、彼女は無言で席に着く。お互い無言のまま、それぞれの担当の作業を進め、私は自分の担当分が完了すると、先輩に成果物を提出する。その間、お互いに全くの無言だった。実際に測ったことはなかったが、丸一日、一言も会話をしなかった日もあったように思う。
私が提出したファイルに対し、先輩からのチェックが入り、ほぼ必ず、二、三箇所の間違いを指摘され、私はそれを修正した後、再提出する。それで良しとなれば、先輩がホームページに掲載し、一つの依頼が完了となり、次の依頼に取り掛かることになった。
前述のように、業務は時間との戦いであり、常に作業速度が要求された。私の担当分を提出した後、お互いに口をきかない状態で、締め切り時刻が迫っている時などは、間に合うかどうか、何度も時計に目をやりながら、冷や汗をかいたものだった。一度だけ、そのまま締め切り時刻となり、納期に間に合わなかったこともあった。その時は、先輩にボールがある状態だったから、先輩に対して依頼元の部署の担当者からクレームが入ったようだった。
作業の間違いを指摘されるのは、常に私一人であった。先輩の作業箇所をチェックする者は存在しなかったため、当然だったのだが、その一方的な関係性は私にとって非常にストレスをもたらすものだった。業務に不慣れであった私のケアレスミスを指摘してもらうことは必要なことだったが、先輩の作業した箇所で間違いを見付けたことも一度や二度ではなかった。立場上、私がそれを指摘することはなかった。
肩書き上は同じ派遣社員であるにもかかわらず、なぜ、ここまで上下関係を明確にさせなければならないのか。自分のミスを指摘されるたび、私の脳裏にはこのような考えが浮かんだ。以前であれば、ここで堪忍袋の緒が切れて、先輩と真っ向から対決して、退職願を叩きつけることになっていたことだろう。だが、今の私には、明確な目標があった。あらゆる苦痛を耐え忍んででも、手に入れたいものがあった。それが、最後の一線で私を踏み止まらせたのだった。
私の自室の壁には、「三十万円を手に入れる」「忍耐力」と筆ペンで大きく書かれた紙片が貼り付けてあった。毎朝、出勤前にそれを見るたびに、あらゆることを耐え忍ぶ決意を新たに固めて、先輩の叱責が待つ職場へと向かっていた。



最初の危険な一ヶ月間を、頭を下げ続けて何とか乗り切ると、次第に私はミスをしなくなっていった。先輩から派遣会社への報告があったかどうかは分からないが、少なくとも、私は解雇されずに済んでいた。
この職場に入ってから、数ヶ月が経過していた。一日に犯すミスの数も、十回から、五回、三回へと減り、一日を全く失敗せずに乗り切る日も出てくるようになっていった。そのような日は、先輩からの叱責も受けずに済み、非常に快い気持ちで帰路につくことができたものだった。およそこの世に、その日一日の仕事を一回の失敗もなく乗り切ること以上に、心安らかになることがあるのだろうか。そのような日は、私は鼻歌でも歌いたいような気分になり、自分の成長を噛み締めつつ、今日一日の幸運に感謝したものだった。

思い起こすのは、ある日の帰り道のことだ。仕事帰りの夕暮れ時、自宅の最寄駅の改札をくぐり、駅前の大通りを自宅へと向かって歩いていた。空はもう夕闇に染まりかけ、薄暗いもやのかかったような空気が周囲を満たしていた。夕陽の名残である橙色と藍色とのグラデーションが仄かに街並みの上を染めていた。星は出ていたかどうかは覚えてはいないが、おそらく、出ていなかったように思える。その時、ふいに私は思い至った。

――まるで、ぬるま湯のようだ。

週五日勤務による月給に裏打ちされた、将来への確固たる安心感。
日々の仕事はすでに習得する必要はなく、気を張らずとも無難にこなすことができる。以前のように上司に叱責されることも、もはやない。
税金はきちんと納め、見返りに、行政からも当然の権利者としての扱いを受けることができる。行政がその存在を重視し、常に擁護を与えるところの、社会を支える層としての大多数の中流家庭。その、いわゆる社会の主流派と呼ばれる人々の集団に、私は末席に名を連ねるに至ったのだった。それが、「ぬるま湯」という実感だった。
社会の底辺で、誰にも知られずに世界から消え去ろうとしていた存在であった、数ヶ月前の私の姿からすれば、なんと遠くまで来たことだろうか。
あえて今、率直に思い起こせば、あの底辺でもがいていた頃の自分の、ぎらついた眼差し、絶え間なく将来への不安に責め苛まれ続けていた傷だらけの魂、圧倒的な絶望と、凍てつく雪原のような張り詰めた空気感。それらが懐かしく思われてくる。あの頃が良かったなどとは口が裂けても言えないが、ただ、今の私にはなくて、あの頃の自分にはあったものが、とても大切なものであったようにも思えるのだ。

――きっと、私は、今の気持ちを忘れてしまうのだろう。

その時、私は、今の私のことを予感していた。
将来への不安から解放され、その絶望の深さを感じられなくなり、「ぬるま湯」に浸かり、そして、それが当たり前の生き方なのだと考えるようになった、今の私の姿を。



――三十万円。

家賃、食費、光熱費、通信費、交通費、服飾費、雑費を除いた、月初の預金残高でその金額が印字されたのは、あの人形と出会った日から十ヶ月後のことだった。月額五万円を貯金すれば半年で貯まる計算だったが、滞納していた健康保険料や税金を支払い、新しいスーツや靴、鞄などを購入した結果、四ヶ月ほど見込みよりも長く時間がかかったのだった。その期間は、私が真っ当な勤め人として社会復帰を果たすために必要だった日数と言っても良かった。

――三十万円。

私は預金通帳を見詰めながら、溜め息をついた。
あの、時が止まったように静まり返った部屋、平日の昼間の日差しの降り注ぐ中、自分が無為に寝転がっていた光景が、遠い昔のことのように思い起こされる。
ここに来るまで、何度、頭を下げたことだろう。何度、「申し訳ありません」を繰り返したことだろう。その代価を支払ったおかげで、今、こうしてここに立っていられるのだった。
今後も、代価を支払い続ける日々は続いてゆくことだろう。あるいは、死を迎えるまで、そのような日々が続くのかもしれない。もし、そうだとしても、私はあの無為な日々に戻ることは、もう、ないのだろうという確信があった。それは、いわば手に職を付けたという実感であった。今後、また転職することになったとしても、上手く次の仕事へと繋がっていくことができるだろうという確信だった。
そのために必要なパスポートとしての「実務経験」という四文字を獲得することができたのだと、私は実感していたのだった。それは、あるいは過信と呼べるものなのかもしれない。ただ、私が必要としていた、将来に対する確固たる安心感がそこにはあった。

――これで、あの人形を手に入れることができる。

私は目を閉じて、十ヶ月前に出会った人形の姿を思い起こそうとした。
遠い昔のように思える日のこと、以前のように鮮明には像を結ぶことはできなかったが、あの、こちらを圧倒するような存在感と、薄暗いコンクリート打ち放しの部屋の不穏な印象は、容易に蘇ってきた。それは、もしかしたら、これからずっと、何十年先までも、私の心を縛り続けるものなのかもしれなかった。あの日の運命的な出会いが、文字通り、私の運命を決定的に変えることになったのだ。その幸運を思うたび、今でも、私は身震いを禁じえない。まさに、人形の導きとも呼んでも良かった。
あの日の私は無職だった。だが、今の私の手元には三十万円がある。それは、あの日は持ち合わせていなかった、人形を手に入れるための資格を手に入れたことにほかならなかった。
ただし、このなけなしの資金を引き出して、人形を求めに行く前に、考えるべきことがあった。
実際に、ギャラリーの受付で名乗りを上げ、購入希望の旨を伝えたならば、当然、ギャラリーとの付き合いも始まるだろう。そして、人形のオーナーとして、人形作家との繋がりもできるかもしれない。それは本来は手放しで喜ぶべきことなのだろうが、私にその資格があるとは確信できなかった。生来の性格はすでに述べた通りであり、人付き合いの類を粗相なく私がこなすことができるとは思えなかった。勿論、日々の会社勤めをこなしている以上、それなりの会話は交わしてきた。ただし、それは業務連絡の類であり、プライベートの人間同士の血の通った会話とは呼べるものではなかった。まして、人形の世界のことはインターネットで調べた程度であり、全くの素人同然と言ってもよく、人形について語り合うことのできる友人というものも皆無であった。そのような私が、本当に、あの気品のある、圧倒的な存在感を持つ、名人の手になる不朽の作品と言っても良いほどの傑作である人形を、手に入れる資格があるのか――。その問いは半年ほど前にもあったものだが、今はより具体的な行動に対する非難の声として、私の脳裏で反響して止まなかった。

この、私の脳裏にこびりつく、コンプレックスとも呼べるような意識には原因があった。
十年以上前、私がまだ学生であった頃、ある展示即売会の会場で、整然と並べられた机の列の一隅に、可愛らしい人形が展示されていた。私はそれを間近で見ようとして近付いたが、人形の出展者から「触らないでね」と声を掛けられた。それは何気ない一言ではあったが、自分は他人からはよほど人形に手を触れてしまいそうな無作法な人間に見えるのかと、少なからず衝撃を受けたのだった。それ以来、ずっと、この一場面が小さな棘のようになって私の心の奥底に刺さったままになっているのだった。人形展を訪れ、「作品に触れないでください」との注意書きを見る度に、そのことが思い起こされてならなかった。
実際、人形展で人形たちの前に立つと、不安な気持ちに襲われる。今、もし、地震が起きたりしたら、この美しい人形たちは地面に叩きつけられて、バラバラに壊れてしまうのだろう。その光景を思い浮かべると、恐怖による身震いを禁じえなかった。あるいは、今、人形の前を歩いている私の鞄が人形の台座に触れてしまい、人形がバランスを崩して落下してしまったら、どうなるだろうか。人形作家の手になる、世界に一点しかない人形たちである。どのように償っても過失の責任は贖いえないだろう。
私は人形の前に立つと、どうしてもそのような想像を禁じえず、自ずと体全体が硬直するのを感じていた。そのような悲観的な空想を呼び起こすほどに、人形たちは繊細にできているように見えた。ふとした弾みで床に落ちたら、粉々に砕け散り、永久に元の形を失ってしまう。少し関節を無理な方向に捻っただけで、手足が外れて元に戻せなくなる――。それを思う度、私には、「人形に触れる」という行為が、特殊な技能を持つ者にしか許されない特別な行為であるように感じられた。私の過去に、人形を乱暴に扱って壊してしまったという事実があるわけではなかった。ただ、人形たちの前に立つたび、人形が壊れてしまった時の光景が目に浮かんでしまうのは、自分ではどうしようもないことだった。

――私に、人形に触れる資格があるのだろうか。

これまでのように、展覧会で鑑賞すべき芸術作品として付き合っていった方が良いのではないか。「作品に手を触れないでください」と書かれたプレートの前に立って眺めていた方が良いのではないか。あえて、自分の雑然とした狭い部屋に招き入れ、人間の汚い手で触れたりしない方が、作品にとっては良いのではないのだろうか。これは、重い問いであった。
その問いに対する答えは、やはり、情動が打ち消すことになった。理屈ではないのだ。資格の有無は論じる埒外であり、もはや、私にはそうするほかに選択肢がないのだった。

――私は、あの人形を手に入れるしかない。

その明確な欲求だけが、最後に残った。
そのためだけに、この十ヶ月間があったのだ。将来設計が立つようになったとか、生活水準が格段に向上したなどというのは副産物に過ぎない。全ては、この欲求に帰結するのだった。十ヶ月分の蓄えを放出することに疑問は生じえなかった。そのための貯金であり、その目標があったからこそ、今の私があるのであり、あの人形を手に入れてこそ、これまでの全ての努力と忍耐は報われるはずだった。
以前の私の前には、ただ漠然とした抽象的な「将来」という名の無限の空虚が広がっているだけだった。しかし、あの人形と出会った瞬間に、私の目の前には明確な「物」が存在し、闇の中に忽然と浮かび上がってきたのだった。しかも、それは努力すれば手の届くところにあったのだった。私を漠然とした灰色の空虚の世界から強引に引き摺り出し、現実へと引き戻したものは、人形という「物」であったのだ。私がその人形を手に入れることは、もはや、使命とすら呼べるものであった。その人形は、ただの人形ではなく、私をこの現実世界に繋ぎとめておくための命綱と言っても良かった。



その日、私は出かけることにした。
秋晴れの気持ちの良い青空が広がっていた。あの雨の日の印象が脳裏に焼き付いているから、どちらかといえば雨の方が良かったのだが、出かけるのにはちょうど良いことは確かだった。
銀行に立ち寄り、なけなしの三十万円を預金口座から引き出すと、残高は六万円となった。家賃、光熱費、通信費、交通費は次回の給料日後の支払いだから、これだけでも当面の生活費には困らないだろう。以前であれば、翌月以降の心配をしたところだが、今はその心配からは解放されていた。
なけなしの資金を財布の中に入れると、財布は膨れ上がり、ズボンの後ろポケットには到底、入りそうになかった。私は仕方なく手提げ鞄の中に財布を仕舞うことにした。

あの日、私に衝撃を与えた、あの場所へ向かっていた。電車の中でもずっと人形のことばかりを考えていた。あれから、もう十ヶ月が経っている。あの時の人形はもういないのだろう。ただ、今日から、あの人形を作った人形作家の個展が開かれることになっていたから、また、こちらを圧倒するような雰囲気を纏った人形たちと出会うことができるのだろう。そして、今度こそ、自分がそうしたいと望めば、手に入れることもできるのだ――。それを思うたび、私の背筋にはぞくぞくとした電流めいたものが走ったのだった。

最寄駅に降り立った私は、そのまま改札口には向かわず、駅構内のベンチに腰を下ろし、一息つくことにした。もう一度、冷静になって、頭の中を整理したかった。
この三十万円という金額は決して軽いものではなかった。月額二万五千円の捻出に始終、頭を悩ませていた十ヶ月前の自分にとっては、実に一年分の生活費に相当する大金だった。当時の自分が願ってやまなかった、夢のような大金――。それを一瞬で使い果たすことに、逡巡がないと言えば嘘だった。いかに稀代の名人の手になる傑作の人形であったとしても。三十万円という大金を一度に使い果たすという行為は、私のこれまでの人生における金銭感覚の埒外であった。
知らず指先が震えてくるのを感じていた。かつての一年分の生活費に相当する大金を一度に使い果たす行為に、私の価値観が悲鳴を上げていた。これまでの自分の常識からすれば、罪悪感を覚えずにはいられなかった。私は、これまでの自分を構成していた何かが、壊れてゆくのを感じていた。あるいは、それは、私を縛り付けていた「常識」という名の固定観念からの脱却を意味しているのかもしれなかった。いずれにせよ、私にとっては、三十年以上、生きてきた中で初めての、清水の舞台から飛び降りるような心地がしていた。きっと、今日という日が終わった後、自分の人生は百八十度、変わってしまうのだろうという予感があった。

――約束を、果たしに行こう。

私はベンチから腰を上げ、大切な全財産の入った鞄を持ち直して、改札口を目指して歩き始めた。

駅前の大通りを、江戸時代から続く雛人形の老舗の重厚な看板の前を通り過ぎ、ゆっくりと歩いてゆく。脇道へと入り、一歩一歩、目的地が近付いてくる。私の心臓は激しく鼓動を打ち、呼吸が浅く早くなっているのを感じていた。熱に浮かされている気分にもなっているようだった。私はやや大げさな程に深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着けることに腐心した。実際、その時の私の体温を測っていたら、風邪で寝込んでいる時と同程度の高熱が表示されたのかもしれない。

ギャラリーは、あの日のまま、そこにあった。
あとは、入り口へと足を踏み出すだけだった。
もしかしたら、あの人形の人形作家が在廊されているのかもしれない。いや、個展の初日だから、おそらく在廊されていることだろう。そう思うと、急に中に入るのが怖くなってきた。人形と人形作家は別物であり、私の興味があるのは人形の方だったから、また生来のコミュニケーション能力の低さを露呈することになってしまうのではないかという心配が頭をもたげてきた。とはいえ、今さら引き返すこともできず、しばらく建物の入り口の傍でぼうっと立っていたのだった。

――このまま、ここに立っていてもしょうがない。

私は意を決して、建物の中へと足を踏み出した。
ギャラリーの受付へと続く急な階段を、私は緊張に身を震わせ、鞄の中の三十万円を何度も手で触って確かめながら、一歩一歩、足元を踏みしめるようにして上っていった。





「触れられない人形」 風見聡